2016年5月28日土曜日

学校は本当に必要なのか

今日本では学校教育の改革が思案され進められています。
ただ、もっと客観的に考えてみると、そもそも学校って必要なの?という話にもなってきます。
かのホリエモンこと堀江貴文さんも学校不要論を唱えているように、学校に子どもたちが集まる必然性が薄れているのです。
となれば、そもそも教育改革を施して学校という環境を残していこうという発想自体が時代遅れであって、そういった時代遅れの発想で教育を改革していこうという人たちに身を委ねても、やっぱり時代遅れの感覚しか身につかないのではないでしょうか。

例えば、今の学校は完全に目的を見失っています。
以前は富国強兵、殖産興業を背景に、国として明確なビジョンの下学校教育制度が施されていたので、その結果輩出される若者の資質もある程度均質化されていました。
しかし今では時代も変わり、以前必要とされていた資質では、現実的にマッチしなくなってきました。

日本は豊かになってからの「失われた20年」の間、学校教育を「鎖国状態」にしてしまったのです。
気づいたら完全に時代から取り残されていた。

焦った政府は、時期もあってか、待った無しの教育改革を断行しましたが、これからの改革でどんな大人が育つかは、その教育を受けた子どもたちが大人になってみないとわからないわけです。
しかし、そもそも今の感覚で改革をしても、その成果を効果測定する頃(今から10年以上も先)には時代遅れになっているでしょうから、測定自体が無意味になってしまいます。

では、果たして今の学校は何のために存在しているのでしょうか。

「学校の存在意義を明確にするためには〜」という発想のはじめ方では、この問いへの正確な答えは出てきません。
それは「学校の存在が必要であること」を前提に考えることになるからです。
本来であれば、必要か否かというもっとベースから考えなくてはなりません。
そして、学校が存在意義を失った時、教育改革がそもそも不必要なことであると結論付けられます。

私は学校が全くのゼロになることは望んでいませんし、それは全く現実的ではないと思っています。
ただ、無目的な義務教育ならば、そんなものに価値はないので、行きたい人だけ行くとか、学びたいものだけを学べる柔軟なシステムにするべきだと思うのです。

例えばいじめの問題も、学校がある以上なくなりません。
学校というシステムが今のままであれば、そのシステムが起因となり、いじめが誘発されるからです。

これは現在サイエンス・ライターとして活動されているマーク・ブキャナン氏の著書『人は原子、世界は物理法則で動く』から導いたものですが、要は人間は人間の性質ゆえにその行動をとると思われているが、中には、その集団が置かれた環境によって行動が誘発される場合も少なくない、という考察です。
黒人と白人の居住区分離は、なにも白人の黒人差別心が引き起こしたものではなく、ただただ人間が普通に持っている感覚が環境に影響を受けて、結果的にそうなってしまっただけであるという考察が、その著書には記されています。
つまり、その場所、その状況に置かれただけで、人は自然とある種の関係性を築くことがあるということです。

この考え方を参考にするならば、学校でいじめが起こるのは、ある意味では必然かも知れません。
そして、もしいじめが発生しても、いじめられている子がその場から容易に脱出することができれば、いじめが深刻化することも避けられるはず。
しかし、実際にはそうはなりません。

例えば学校のあり方がよりフリーになり、流動的なシステムになれば、そして子どもたちが学びたいものに集中できる環境になれば、そもそもいじめをしようなんてことにはなりにくい。
暇だから、夢中になれるものがないからいじめが起こるんです。
そして暇や堕落を誘発するのは今の学校システムゆえであるなら、学校教育は根底からその形を変えねばならないことになります。

「学校」という定義がまだまだ曖昧ですが、「学校」というものを残すとしても、そのシステムは変わるべき時に来ています。
無料で利用できる授業動画が溢れている時代に、ハコにこだわる学校のあり方は旧い。
学校は、時代が求める目的に応じてゼロベースで検討し直されるべきで、今の不毛な教育改革でお茶を濁されている場合ではないというのが私の思いです。

学校は今、そのシステムが限界を迎えています。
本当に意味のある学びの環境にする気があるのなら、まずはその発想を壊してみるべきです。

それを考えると今の教育改革は、実質、教育「改善」に過ぎません。
いや、改善されるかどうかも謎です。
これから勉強の目的を模索しようという、とんでもハップンな改革路線はむしろカオス。
そんなカオスに引き込まれないためにも、自分で勉強できる強さを身につけなければと思うわけです。

学校とは何のためにある?
学校とは何?
学校は必要?
これから何度も考えなくてはならない問いかも知れません。

2016年5月22日日曜日

教育者たちはなぜ「あり得ない教育改革」をやめられないのか


最近ある教育者の方とFBを通して意見交換をする機会がありました。
私が以前公開したブログの記事「教育業界の抱える大いなるすれ違い」を取り上げて下さり、数点のご指摘を下さったのです。

このやり取りの中で気になることがあったので、ここで改めて検証してみようと思います。

まず、私の基本的なスタンスは「現在進められている教育改革は機能しない(期待通りの結果を出せない)」というものです。
その理由は「勉強とはなんぞや」という点を明確にすることなく、教授法の工夫に偏った追求を続けているからです。

教育改革とは、言うなれば勉強事情の改革に他なりません。
大学受験制度との接続をより現実社会にマッチした形にするための変革なので、それは要するに勉強に関する状況改善なのです。
しかし、教育改革を進める当の教育者たちは「勉強とはなんぞや」という点に関する議論を放置したまま、授業方法の改革に勤しんでいます。
今回意見交換させていただいた方も、「教授法を色々試すことで勉強の目的を改めて考えることになるのでは!?」とおっしゃっていたのですが、要するに教育改革はこのような「目的なき手段」によって成されようとしているのです。

子どもたちの勉強事情の変革のための改革事業のはずなのに、誰も勉強の本質を追求していない。
むしろそれを認識した上で、手段をあれこれと考えているわけです。
これがどんな状況かと言えば、それはまるでゴールを決めずにマラソンコースを創ろうとしているようなものです。
どこに行き着くと言うのでしょうか。

そもそも、目的がないのに手段など考えられるわけがありません。
どこに行くかを決めるから、そこに行くためのルートの検証が可能なのであって、その逆はあり得ないのです。
しかし、そのあり得ないことをやろうとしています。

私がよく引用する話に「レンガ積み」の話があります。

ある人が黙々とレンガを積んでいるところに遭遇するとします。
あなたはこう聞くはずです。
「そのレンガで何を作っているの?」
もしその人が「いや〜分からないんです、私は何を作っているんでしょう」と答えるなら、ちょっと心配になりますよね。
それが正に、勉強が苦手な子どもたちの状況であり、今の教育改革の実態なのです。

教育者の方々は、なぜこんな改革を進められるのか。
それは勉強の目的を自分たちが絞り込むことを良しとしないという教育観に原因があります。
それが全ての元凶なのです。

勉強という仕組みの根底は、国が子どもたちに課す国家的事業です。
ということは、そこには国家ビジョンがあって然るべきで、こんな子供達を育成したいという教育ビジョンももちろん含まれていなければなりません。
しかし実際には明確な教育ビジョンがなく、あれもこれものモザイク壁画になっています。

そうです。
もともとの原因は「文部科学省に明確なビジョンがない」ことにあります。
英語もやりたい、プログラミングもやりたい、コミュニケーション能力も欲しい、考える力もつけたい、学び合いも大事。。。。
こんな状況では何もないのと同じですよね。
そして、文部科学省を盲信するしかない教育者たちもまた、それ以上のビジョンを持てずにいます。
だから「目的なき手段」に陥るしかないわけです。

では、この問題を解決するにはどうすればいいのでしょうか。

私はそこに独自の解決方法を提示し、自身の会社で実施することにしました。
成績保証(全額返金制度)を付けて、3ヶ月で確実に成績を伸ばすプランを子どもたちに提供するサービスです。
そこには明確な目的意識と、その目的を達成することにのみフォーカスすることでやるべきことが具体化されるというプロセスを通した、結果を出すためのシステムがあります。
「何をどうしたらいいか分からない」
「勉強のやり方が分からない」
「頑張っているのに成績が伸びない」
そんなあらゆる悩みを解消することが私の全てなのです。

これを真の教育改革だと言う気はないけれど、もし教育者の方々が私と同じ思いで取り組んでくれるのなら、きっと全く違う結果になることでしょう。
おこがましいこと言っているのは承知ですが、本気でそう思います。

子どもたちの未来は国の未来です。
教育改革が本質的な意味で子どもたちを救う一助になることを、切に願って今回のブログを終わります。
目的なき手段に先はありません。
是非、考えるきっかけにしていただきたいです。

2016年5月14日土曜日

自分で勉強する力が求められています

本当に!?と思うでしょうか。
そうですよね、文部科学省も「学び合い」を推奨し、グループワークを授業の中に取り入れていく動きを見せています。
「自分で勉強する」なんて、どうも時代と逆行しているように見えます。

しかし、これからの文部科学省の動きを考えていくと、この「自勉力」が格差の要因になっていくことが分かってきます。
今日はそのプロセスを説明しましょう。

まず、これからの学校教育は知識偏重であった暗記中心の勉強から脱却し、知識の活用や協調性をベースにした「学習の質向上」を目指して動いていくようです。
その一環としてアクティブ・ラーニングがあり、PBL(Project Based Learning)があり、その手法としてグループワークの導入が検討されているわけです。

ちなみに先日発表された馳文部科学大臣のメッセージからまとめると、学習の質を向上させるのだが、教える知識量は削らない、とのこと。

また、そこに並行して反転学習の導入も検討されています。
反転学習とは、授業の動画を家で見て学習した後、学校でその内容について学び合うというもので、これまで「学校で授業、家で学習」だったものを「家で授業、学校で学習」という風に反転させたいのだそうです。

さて、こうして見ると
・詰め込み学習からの脱却
・でも知識量は減らさない
・学び合いを軸に学習の質を高める
・反転学習を取り入れる
という大まかなポイントが見えてくるのですが、この改革で最も重大な欠陥がこの裏には隠されています。

「覚える時間が圧迫されている」という欠陥です。

詰め込み教育でも上手く詰め込みができない生徒が多かったことが問題とされ、教育改革が進められています。
しかし覚える量は減らさないと言います。
その上で学びの質を向上させて、家で授業を観てこいというわけです。
これでは「知識を覚える」時間が圧倒的に減らされてしまいます。

知識の活用というのは、あくまでも頭の中に知識が蓄積されている状態が前提です。
しかし、知識を記憶する(蓄積する)時間そのものが度外視されている現プランでは、いきなり「活用」にフォーカスされていて、覚える時間が考えられていないんですね。

家で授業動画を観てきて、学校に来て学び合いをするというやり方も、大きく2つの問題をはらんでいます。
・授業動画をちゃんと皆んな観てくるのか
・話し合いのグループメンバーは配慮されているのか

まず、これまでの状況を考えれば、宿題が「授業動画を観る」ということになります。
これまでよりも受け身で済む分、取り掛かりに関する心理的ハードルは下がる、と考えられているのでしょうか。
そうであれば机上の空論で、宿題の実践率はさほど変わらないと考えられます。
すると、授業を観てこない生徒は学校に来てからの学び合いにも参加できません。
物理的には参加することができても、話し合いの中身が分からないからついていけないのです。

これまでは学校で授業があったので、強制的に受けさせられる分「聞いていない」ことはあっても、「受けていない」ことはなかったはずです。
しかし今後は「受けていない」が発生することになります。
つまり、これまで以上に自己責任の範囲が広げられてしまうわけです。

さらに、学び合いに関する話し合いのグループ構成ですが、ここにも問題があります。
あまりに習得レベルの差があるメンバーが同じグループに混在すると、双方にとってマイナスになるからです。

学び合いを機能させるために、同程度の習得レベルのメンバーを必要とします。
先ほどの例のように、そもそも授業を観てきていない生徒がいると、その生徒は学び合いを活かすことはできません。
また、観てきたとしても内容理解が追いついていない場合は、完全に聞き役に徹することになります。
こうなると、意味の分からない授業と同じで、完全な受け身では頭にほとんど入ってきません。
もっと悪いのは、他のメンバーとの習得度合いの差を目の当たりにするので、学び合いの場を繰り返す度に劣等感を募らせていく(自己評価を下げていく)ことになります。

逆に周囲よりも学習が進んでいる生徒は、他のメンバーに教える側になります。
同じ習得レベルのメンバーが他に入れば、活用内容についてキャッチボールができるのでしょうが、もし自分だけという状況なら、引っ張る場面が多くなるでしょう。

しかし、この引っ張る状況が多くなれば、だんだん学び合い自体が面倒になります。
「お前らももっと勉強してこいよ」とストレスを感じるようになります。
教えることが気にならない生徒は、教えることでよりかしこくなり、記憶にも定着しますので、良く機能すればプラスになるでしょう。

このように、反転学習と学び合いがコラボして授業に導入されるようになれば、明らかに不調和が生じるリスクが高く、学力格差は余計に開いてしまう可能性もあるのです。
悪い言い方をすれば「足の引っ張り合い」になりかねない。

悲観的すぎますか?
もちろん、私のこの見方が悲観的すぎると思い、もっと上手くいくはずだと思われる方はそれでも構わないのです。
しかし、その後の人生がかかった大事な問題ですから、最悪を想定して準備をしておくに越したことはありません。
その点では悲観しすぎることはないと私は思います。

むしろ逆に、文部科学省も現場の教育関係者のみなさんも、どうも楽観的すぎる気もします。
「この方法を使えばこんな良いことが起きますよ!」ということしか発表していないんです。
リスクは本当にないの?
どこまでのリスクを見込んで、どんなリスクを想定して、どこまで手を打っているの?
そう考えてしまうんです。
ましてや自分だけではなく、日本の子どもたち全員の人生を左右する大事な案件なのに、そんなふわふわした楽観主義で改革やっちゃうの?と心配なのです。

そこで、そういった不安を払拭するためにもリスクヘッジは必要で、その具体的な提案が「自勉力」の構築です。

自分で勉強する力の重要性は、これまでのお話でも十分ご理解いただけていると思います。
学び合いも大事だけれど、学び合いが本質的に機能するには、一人一人のメンバーが自分で勉強して自分をフォローしていないといけないからです。
つまりは切磋琢磨です。
切磋琢磨の精神がないと、学び合いが学び合いになりません。
グループを作って「教える側と教わる側」を作るだけになってしまう。
それでは意味がないんです。

ですから、文部科学省がやる気になって教育改革を進めてくれるのは結構だとしても、これまでの文科省の実績を勘案すれば、手放しでこの改革に身を委ねるのは大博打としか言えません。
自分の身を自分で守るためにも、一歩引いてこの改革と向き合い、必要なところは活かして、距離を取るところは距離を取るというスタンスが大事だと思います。

こうして考えれば、最終的には自分で勉強する力が求められることになっていくはずです。
確かに文部科学省も現場の先生たちも「学び合い」「協調」と言うかも知れません。
しかし、それを言葉通りに受け取っていたら、取り返しのつかないことになる。
自分の人生です。
安易に学校に委ねてはいけない。
考えていきましょう。

2016年5月13日金曜日

最強の勉強スタイル”自勉”

いろんな勉強法がある中でも、やはり最強なのは自勉です。
これは間違いありません。

自勉とは文字通り「自分で勉強すること」です。
いやいや、そんなの頭の良い人たちだからできることでしょう、と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、そんな風に考えるからあなたは成績が伸びないのです。
まずは考え方を変えないといけない。

そもそも頭が良いとか悪いとかっていうのは、どういうことなのでしょうか。
人間は皆、140億個の脳神経細胞を持ち、1.25TB(テラバイト)の記憶容量を持っています。
勿論、脳に障害をお持ちの方や、通常よりも活性化する脳の構造をお持ちの方についてはその限りではありません。
でも、脳の性能自体は基本個人差はないのです。

ではなぜ成績の差が生まれるのかというと、脳の使い方が勉強という目的に適しているかどうか、という点に原因があります。
どんなに高性能な脳を持っていても、うまく使えるかどうかで、そこから引き出せる価値も変わってくるのです。

例えば「頭が良い」と言われている人たちは、自分で勉強するのが一番良いに決まっている、と言うでしょう。
わざわざ月々何万円も払って塾にやってもらわなくても、学校をうまく活用できさえすればなんとかなるという発想なのです。
そんなお金があったら自分の好きな服を買った方が良いとか、遊びに回したいと思うはずです。
だから自分で勉強した方が 気楽だと。

それに塾や家庭教師は時間に制約を受けるのが面倒です。
この曜日のこの時間に何を勉強しないといけないのか、それを決められると、予定をずらしにくくなってしまう。
急に遊びに誘われても「その日は塾が、、、」となるわけですが、要領の良い人は「いくいく!」と答えて、そこでするはずだった勉強は別の日に確実に消化する、とするわけです。

じゃあなぜ「自分は頭悪いし」とか「そんなん自分にできるわけないじゃん」と思ってしまうかというと、自己評価がそうだからです。
そしてそれゆえに、本当に自己評価通りの結果を出してしまって「ほ〜らね、やっぱり自分はこんなもんよ」と思い、そのスパイラルを繰り返すことで他の発想ができなくなってしまうんですね。

ただ、これはある意味で「思考の慣れ」の問題です。
なので、まずはここから抜け出さないといけない。

抜け出すにはどうすればいいのかというと、先ほどお話した「人間レベル」までさかのぼって自分の評価を下し直すのが早いです。
この「私という個人」を◯◯県民→日本人→アジア人→地球人→人間という風に抽象レベルを上げていくことを抽象化と言いますが、自分を客観的に見られるレベルまで抽象化して冷静に考えれば、自分にそれができない理由はない、と気づきやすくなります。

自分が「あいつは頭が良い」と思っている相手と、本来同じ脳構造をしているのなら、自分も同じことができて当たり前だと考えてください。
そして、できるはずなのにできていないのはなぜか、と考えるのです。
すると、自分の思い込みを生じさせているのは、これまでの過去だと思い当たります。
つまり、過去をなかったことにして、今のこの瞬間から新しい生き方に変えれば良いんだという、解決策に行き着けるはずなのです。

できればこの考え方が、単なる頭の中だけの納得ではなく、腑に落ちるところまでいくとなお良いです。
そうなるまでには時間がかかりますが、「自分はできるし、できないわけがない。できていない今の方がおかしい、だから本来の自分に戻らなくちゃ。」と思い続けるのです。

すると、だんだん成績の悪い今の現状に不満が出てくるはずです。

自己評価を切り替える瞬間には、必ずある種の自己否定が生じます。
それは正常に切り替わろうとしている証拠です。
今の自分ではダメだと思うから人は頑張るんであって、こうなれたら良いな〜なんて気持ちではなかなか気合が入らないものです。

そして、実際そういう心意気になった自分からもう一度同じ質問に答えてみてください。
「自分で勉強する方が気楽ではありませんか?」
答えはYESになるはずです。

誰も何かに束縛されたくない。
塾や家庭教師に依存して、ダラダラと勉強した先に幸せがあるなんて思ってない。
ただ、今自分の成績がこんなに悪いのだから、自分が何かを望めるわけがないのだ、という諦めがあったのではないでしょうか。
でもそれは違うということにもお気づきだと思います。
成績が悪いのが問題だったのではなく、それを理由に諦めて他の方法を模索しないことこそが本当の問題だったということです。

その発想まで追いついていただけると、自分で勉強するのが最強の勉強スタンスであることも納得いただけると思います。
あとは具体的にどんな風に勉強していけば自勉が成り立つのかを知りたいはずです。
そして、それをお教えするのが私の役目です。

自分で勉強できるようになれば、余計なお金を塾や家庭教師に投資しなくても済む。
そういったお金は服や布団や家具や身だしなみに使う方が、はるかに自尊心を高めてくれます。
英会話を習っても良いし、実際に海外に行かれても良いし、海外じゃなくても旅行でいろんなものを観に行った方が、記憶にも残るし生き方が豊かになりますよね。
勉強そのものにお金を使うよりも、それ以外の自分の興味関心のあることに使う方が、遠回りに見えて実はダイレクトに自己評価を上げることに働いて、成績を押し上げてくれるのです。

以上により、自分で勉強するのが最強の勉強法だと私は考えます。
まとまり悪いですが、証明終わります(笑)

2016年5月9日月曜日

教育業界の抱える大いなるすれ違い


これからの教育改革の柱であるアクティブ・ラーニング。
しかし、そのことで盛り上がってるのって、実は意識高い系の一部の人たちだけなんじゃないかって思ったりします。
これは私の勝手な予測です。

そもそも、この大胆な改革が安倍政権で行われて、急に「待ったなし」として始まった時点で、これは安倍さんのポーズだと思わなくてはなりません。
何か頑張ってる感を出すための動き。
派手に動けば勝手に周囲が議論化してくれるから、教育分野に投石したわけですね。

確かに今日本の教育は改革を迫られています。
しかし、現実的に考えてこれだけ現場にストレスフルな改革は、もっと慎重に進めねばならないものです。
私ならこんな負担の大きい改革はしません。

例えば、盛り上がっている方々のように、先生が皆意識が高くて頑張ろう!という気概のある方々ばっかりなら、これほどスムーズに進む改革はないでしょう。
しかし、実際にはほんの一部が盛り上がって、そこにスポットが当たり、いかにも全体が盛り上がっているかのように見える、というのが現状な気もします。

中には日頃の業務に忙殺されたり、生徒たちとうまく信頼関係が結べなかったり、もっとプライベートを充実させたいと思うような、教育意欲の低い先生が多いと思います。
そういう人たちが悪いと言いたいのではありません。
むしろ逆で、そういう先生が多くて当然だと思うのです。
改革が必要だ!とは思っていても、自分がそこまでハマって勉強して成長したいかというと、実はそうでもないとか。
そういう人が多い気がするんです。

そうなると、どんなに一部が盛り上がって”知識を詰め込んだ”ところで、それを現場で有効に活用する段階まで果たして進めるのか。
今以上に授業準備が必要になるわけじゃないですか。
よっぽどですよ、それを嬉々として何年も何年も取り組める先生は。

例えばこれを生徒側から見ても、迷惑この上ない改革案です。

アクティブ・ラーニングをどれくらいの頻度で通常日程に入れ込んでくるかは知りませんが、少なくてもここまで軸にする話が出ているということは、それ相応の時間は当てがわれるはずです。
でなくては逆に成果が出ません。
効果測定もできません。

が、そんなことをされたら知識を覚える時間が奪われてしまいます。
いつも訴えていることですし、この点は教育改革実践者である藤原さんもおっしゃっていますが、考えるという行為は知識があって初めてできることなんです。
知識もないうちから考えることなんてできません。
しかし知識暗記偏重だった教育を否定して始まった改革である以上、考える力を育むプランの方に比重が移っていくはずです。
すると、知識がない中で考えさせられるため、実際には考える力は育まれないというパラドックスが生じます。

本来なら、もしアクティブ・ラーニングをどうしても入れたいというならば、知識の習得にかける時間を今までの半分とか3分の2とかに圧縮して、残った時間をがっつりアクティブ・ラーニングに投入する方が理にかなっています。
しかしそれでも、直前期は受験対策に集中したいもの。
話し合い、学び合いなんてしてる精神的ゆとりは子どもたちにはないでしょう。

それに、担当する先生の方は生徒よりもはるかに楽です。
なぜかというと、先生は基本自分の担当科目だけに集中して勉強できるからです。
だから、自分の好きな科目、得意な科目、興味のある科目だけを勉強すればいい先生サイドからすれば、予習が多少面倒になる程度で済むはず。

しかし生徒は好きな科目も嫌いな科目も清濁合わせ飲まなければならない状況にあります。
一つ二つの科目で済む子もいますが、多くは他教科に渡って対策をし、全体の合計点数で入試に立ち向かうのが前提です。
そこで知識習得の時間を削られるというこの負担が、一体どれだけの不安を子どもたちに課すことになるのでしょうか。

大学入試も変わるから高校の授業も変わらなくては、という正義感は立派ですが、振り回されるのは子どもたちです。
実際今の時点で大きなタイムラグが発生しています。
それに高大連結のすり合わせは済んでいるのか?という部分も気になります。
お互いが思惑のズレたまま動いていくのでは、教育改革の体を成しません。

それに、本来の学びに戻ろう!教育の本質とは!?とか一部の大人たちがイキんでますが、そもそも子どもたちは勉強したくないんです。
勉強が好きな子、したい子は一部であって、教育されようと思って学校に来てる子もほとんどいません。

だから先生たちが考えなくても良い、という短絡的な話でも勿論ない。
先生たちがイキんでいろいろ考えてやったとしても、そこを子どもたちが望んでるわけではないということなんです。

このすれ違いは多くの場面で見受けられます。

今回の熊本地震でも、ボランティアの人に悪態をつく被災者の方の話がありましたが、やってやってるんだから黙ってろって発想は私はおかしいと思うんです。
やってもらってる、相手も良かれと思ってやっている、でも申し訳ないけどそこは望んでない、こっちにもっと手を貸して欲しいんだってことはよくあります。

家庭でだってそうです。
お風呂を洗ってくれるのは嬉しいんだけど、お母さんはお前に勉強頑張って欲しいんだよ、とか。
心配してくれるのは嬉しいけど、そうやってがんじがらめにされるのは正直迷惑なんだよな、とか。

お互いの思いがすれ違うことってしょっちゅうなんです。

で、今回の教育改革においても、なんで先生がこんなにイキんでるのか分かりませんが、そうやって先生たちが頑張ろうとすればするほど、子どもたちが頑張る場面がどんどん減っていくんですね。
先生たちが先んじて色々考え動くから、とりあえず言われることに従うしかないのだけれど、結果子どもたちはイキんだ大人たちの熱意に振り回される。
違うんです。
本当にやるべきは子どもたちにもっと頑張らせることなんです。

そもそも学校教育の変革において、ゴールはどこにあるんでしょうか。
そこも気になるところです。
子どもたちをどうにかしなくちゃ!っていう危機感が先行して、先のイメージが具体的に描けていないんじゃないでしょうか。
だからあれもこれも身につけさせなきゃ〜ってなる。
だから自分たちが頑張らなきゃ〜って思ってしまう。

私は学校教育はあくまでも国家プロジェクトだと思っています。
学校は、国がどんな子どもたちを育てたいかを具現化するための場所です。
昔から公教育は富国強兵、殖産興業という旗印の下、国家に寄与する人材を育成する目的で学校教育を運営してきました。
しかし今はそのビジョンが不明瞭で、逆に「子どもを一人の個として〜」なんて言われています。

いや、子どもたちは最初から個として尊重すべき存在であって、わざわざこれからの教育は〜なんて言い方をしなくてもいいはずなんです。
それに、教育の主役は保護者であって、学校教育と家庭が一緒になって育てる、そこに社会という要素が入ればなお良いですが、そうやってお互いに補完し合いながら育てていくものなんです。
それを勝手に学校が責任を負い始めて、今度は個の尊重とか言い出した。
それでは今まで尊重してこなかったみたいです。

そして、そうであるなら、まずはその部分を考えないといけないのに、いきなりアクティブ・ラーニングという目くらましが登場しました。
個性をもっと尊重して育てるんだ、らしいです。
中には多様性という言い方をしている人もいます。
教えるのではなく、サポート役に回るのだそうです。

こうして誰もが率先して、子どもたちを先導することをやめていったら、未来はどうなるのでしょうか。
国の施す公教育が、子どもたちに教えなくなったら、一体どうなるのでしょうか。

私は「詰め込み教育」への感情的な反発が根底にあることで、教育改革の目的の置き方が大きく外れてしまったと考えています。
だから授業そのものをガラッと変えるという暴挙に出た。

でも本当は違うんです。
今のままでも自由な学びができていた。
個性を発現できていた。
「詰め込み教育」と揶揄されながらも、そんなレッテルには騙されずに、勉強の本質を理解し取り組んできた優秀な人材は多くいたんです。

じゃあ何が本当は悪かったか。
その「詰め込み教育」の活用方法を教える教師がいなかったことです。
使い方が分からないんだから、うまく使えるわけがないんです。
でも、それでも独自に気付いた人たちは成績優秀な結果を残して抜きん出れた。

詰め込み教育の使い方が分かる教師が少なかったことが原因だったのかも知れません。
前回述べたように、教育学部は決して高いハードルではありません。
根性でも乗り越えていける学部です。
もちろん大学のレベルにも因りますが。

でも単純に詰め込んで合格してしまうと、詰め込み教育の活用方法を改めて模索する機会がないんですね。
知らないことは教えられない。
だから詰め込み教育は「詰め込み教育」として機能しないまま放置されてしまった。

裏を返せば、そこさえ先生方が理解して説明し、受験制度の乗り越え方までレクチャーすれば事は済んでいたはずなんです。
そうすれば、もっと明確な目的意識と安心感をもってプラスαを追求できた。
いつまでも「詰め込み教育」を理解しないから、先生たちもどうしていいか分からないままだったんです。
だから真新しい「アクティブ・ラーニング!」というアイデアに希望を抱いて飛びついてしまった。

というのが、これから起こる大混乱時代の序章です。

アクティブ・ラーニング自体は素晴らしい教育手法かと思います。
それ自体は全く否定はしません。
そういうことではないんです。
これまでの発想のままで違う武器に持ち替えても、使いきれるわけがないという話です。
詰め込み教育という前時代的な教育手法でさえ理解できなかったのに、次世代型の教育手法なら理解できると言える根拠が私には見えないんです。
電子黒板入れても使いこなせなかった、ああいう事態に多くの現場が陥ると思うんですね。

盛り上がっている意識高い系の先生たちは良いと思います。
さぞ盛り上がって楽しいでしょう。
でもそれが同じように再現できる先生たちばかりではない。
その現実をこれからどう理想に近づけていけるのか、そこが課題だと思います。
もちろん、そんなことはすでに話し合い尽くされているとは思いますが。

2016年5月7日土曜日

橋下さん、尾木ママ、佐藤ママからの教育観


ここ数日、尾木ママと佐藤ママの討論や橋下さんの新番組等を観て、自分の教育観を養っています。
いろんな見方をする方がいらっしゃるものですね。
ただ、どうしても私は尾木ママは好きになれません(苦笑)

尾木ママって適当なことばっかり言ってますよね(汗)
論理もめちゃくちゃだし、都合悪くなると怒ったり茶化して逃げたりする。

例えば去年話題になった佐藤ママですが、佐藤ママが注目されたきっかけは「息子3人を東大理Ⅲに入れた」というニュースでした。
このことに尾木ママが週刊文春の記事で酷評したわけです。

これはバイキングの坂上さんが「欠席裁判」と評した通り、ちょっと一方的なやり方でした。
全く面識もない、一主婦の輝かしい成果に対して、雑誌のコラムで「時代遅れ」とか「東大至上主義」とか言うわけです。
自分をプロの教育者と豪語する方が、一個人の方のお子育ての成功を妬んで記事に書くというのは、どう考えても道理に合いませんよね。

これはいじめっ子のやり方です。

いじめを誘発する子というのは、嫌いになった相手の悪口をいろんな子に吹き込みます。
こうして「その子を嫌いなグループ」でその子を囲い込んでみんなでいじめるのです。
尾木ママのやってることはそれと全く同じ。
それも相手は素人であり、「尾木ママが雑誌に書く」という影響力を逆手に取って周囲を巻き込み、そうだそうだという見方を増やす行為でした。
要するに「みんなで佐藤ママをいじめましょう」と扇動したようなものです。

でも、なぜ尾木ママがここまでやったのか。
それは自身が子育てに失敗しているという背景が関係しています。

『しくじり先生』でご自身が暴露した通り、尾木ママは二人の娘の教育に失敗した過去があります。
教育者としてどれだけ立派な方かは知りませんが、少なくても自分の子どもたちを犠牲にしてきたということです。

一方佐藤ママは、息子3人に「東大理Ⅲに入る」という、受験におけるこの上ない栄誉を与え、その上子どもたちがかなりの人格者に育っているという、尾木ママとは正反対の成果を上げています。
これは気持ちいいわけがありません。
イラっとする気持ちも分からなくない。

しかし、今回採用した動画を観ていただくとお分かりの通り、今回の客観的評価は尾木ママに軍配が上がっているものの、その内容の優劣に関しては明らかに佐藤ママの方が優勢なのです。
尾木ママは感情論や理想論で論旨を展開しますが、佐藤ママはあくまでも現実目線です。
その上、「これは一主婦の意見であり、一般論ではない」というスタンスで話を組立てています。
が、それを周囲が勝手に一般論に広げて解釈して議論するために、どんどんかみ合わなくなり、それどころかどんどん流れがアンチ佐藤ママみたいになっていきます。

この流れはついに続編を企画するまでになりました。
もちろん続編も佐藤ママのアウェーでした。

一方、橋下さんの新番組は、フリーアナウンサーの羽鳥さんとの共同番組です。
当初の食べ歩き番組から論客を交えた討論企画になりましたが、そこで尾木ママと議論するシーンがあったのです。

最初の橋下さんと尾木ママの対立構造は「小・中学生の留年制度」に関するものでした。
言わずもがな、尾木ママはこの提案に真っ向から反対します。

しかし、いざ討論の場面になると、橋下さんにかなうわけがありません。
この番組では2度、二人が相見える機会がありました。
が、一度目は最終的に尾木ママが自分の意見を変えて橋下さんに擦り寄る作戦に変えてきました。

二回目のやりとりでは、尾木ママが提案者として立ったため対立が避けられず、最終的には客観的評価で負け越しましたが「寂しい人たちネェ」という捨て台詞で幕を閉じました。

尾木ママはおネェキャラになってから急に注目を集め始めた「自称・プロ教育者」です。
が、相手が論理的思考力の高い相手だと絶対勝てません。
尾木ママには論理力が欠けているからです。

しかし、人は論理よりも情感に気持ち良さを感じるものです。
論理も大事だと認識していながらも、完全なる論理だけのアプローチには重苦しさを感じてしまうのでしょう。
橋下さんもあれだけ注目を浴びて、7年半も尽力してもなお大阪都構想を実現できませんでしたし、佐藤ママも、かなり癖のある話し方をすることもあって、どんどん周囲を敵に回して不利になっていってしまいました。

私からすれば、教員を40年やって、テレビにも出て、自分はプロ教育者だと豪語する教育者でさえ、このレベルの議論しかできないということに危機感を抱いてしまいます。
そりゃあ感情論や理想論で話をしていれば気持ちいいでしょう。
しかし、それでは問題を解決することはできません。
現に、尾木ママが完全否定する佐藤ママは、完全に受験を攻略して、東大理Ⅲ合格という実績を3回も出しているのです。
つまり、こと勉強に関しては尾木ママよりも佐藤ママの方が正しいわけです。

しかし第三者が二人の話を聞いていると、どうも佐藤ママの考え方は意にそぐわないらしい。
尾木ママの言うことの方が聞き心地が良いようです。

誤解をされたくないので言いますが、佐藤ママが正しいわけではありません。
佐藤ママの”方が”正しい。
尾木ママと佐藤ママ、どちらの意見を聞けば成績が上がるかと言えば、明らかに佐藤ママである、というだけのことです。
あくまでも佐藤家で上手くいった事例であり、参考にするのは良いのですが、それをそのまま真似て上手くいくか?という話になると、それは違うということなのです。

橋下さんもガチガチの理論派です。
かつてはいろんな人を論破し、高校生までも泣かせるという事態もありました。
しかし、大阪のトップが政治を感情や理想論でやり始めたら、それこそ恐いですよね(汗)
でも、心ない政治だと思われたのでしょう。
難しいです。

私は、はっきり言って教育者には教育改革はできないと思います。
教育者には心優しい人が多い。
でも優しい人は客観視が苦手です。
どうしても感情を挟んでしまう。
理想も描いてしまう。
現実よりもイメージを大事にするんですね。

今の教育改革に関する話もそうです。
アクティブ・ラーニングでこんな生徒を増やしたい、こんなスキルを身につけさせたい、という理想的なイメージを話されるのですが、現場のリアルをどこまで見ているのかが、いささか疑問です。
どうも現場のリアルを過小評価して、成功イメージばかりを追い求めている。
でも論理力に欠けているので感情論と理想論でそのギャップを埋めようと躍起になっているんです。

これって相当危険な状態ではないでしょうか。

中には「失敗なんて恐れない!」「失敗って何?」「新しい動きには失敗はむしろあって当たり前だ!」などとポジティブシンキングしている方も見受けられます。
これって恐くないですか?(汗)
失敗しても、それを成功につなげていこうぜ!って言うのは、結果が出てからの話であって、やる前から「失敗当たり前!」なんてテンションで教育をやられても、自分の子どもの人生をなんだと思ってんだ!って話です。
でも教育者の方々の多くは、こういう思いで教育改革に携わっている。

私もこうやって論じていることからもお分かりの通り、ガチガチの理論派です。
曖昧なことが嫌いなので、一個一個の議論を繋げるのに「感情論」「理想論」は極力用いいません。
感情もありますし、理想を追いかける起業家ですが、それと教育の話は別物でしょう。
繋がっているように見せても、それは繋がっていないのです。

そうやって考えていくと、だんだんと本来のあるべき学習スタンスが見えてきます。
子どもたちが勉強というものとどう向き合っていけばいいのかという、スタンスです。
それは「自分で勉強すること」です。

学校や教育改革に振り回されることなく、塾や家庭教師に縛られることなく、自分の力で勉強できるようになること、それこそが最強のアクティブ・ラーニングだと思いませんか?

自分の目標達成のために、自分の1日1日を自分で管理しコントロールする。
こう言われると難しく聞こえるかも知れませんが、そうする気になっていないということと、そうできるというイメージがないこと、そして根本的に自信が持てなくなってしまっていることなどが影響して、できていないだけです。
できる能力がないということとは全く違います。
できるはずなのにできていない、ただそれだけなんです。

だからその点を解消してあげられれば、子どもたちの勉強事情はガラッと一変します。
そうなったらすごいことになります。
世の中が全く違う価値観に切り替わるということだからです。
日本で成功すれば、それが世界にどんどん染み出していって、いろんな国の子どもたちが同じように自勉できるようになれば、世界がガラッと一変すると思うんです。
それってめっちゃ楽しそうじゃないですか!?

学校や塾や家庭教師に頼らず自分で勉強するようになれば、子どもたちは自分の人生を本当の意味で自分のものとして扱えるようになります。
教育費に圧迫された家庭の経済事情も解消され、別の消費活動を促進して、世の中の経済バランスが一変するし、多くの人が自分の望みを達成する能力を手に入れるのです。
心も豊かに、明るく、たくましくなっていく。
心に余裕ができれば人に優しくなれるんです。

はい、こうやって私も理想は描きます(笑)
でも、目の前の事情には論理的に対応していかねばです。

ということで、今回は橋下さん、尾木ママ、佐藤ママの動画を観た感想を踏まえて、これからの明るい未来を想像してみました。
これから、その未来を創造しなくちゃですね。
それでは。

2016年5月6日金曜日

藤原和博さんのバランス思考



遅ればせながら藤原さんの動画を拝見しました。
ここで紹介されていたのが、藤原さんの著書『たった1度の人生を変える勉強をしよう』です。
早速図書館で借りて拝読しました。

まず、いつも言っていることですが、私の立場としては「アクティブ・ラーニングは期待しているような結果を出せるものではない」というものです。
が、今回の藤原さんのおっしゃっている話と、本の内容を合わせて検証すると、考え方自体は私と近いものがありました。
「考えるには知識の習得が前提としてある」
「グループワークは今の勉強を前提とした先にある」
といった点は全く同意見です。

要するに、アクティブ・ラーニングが本当の意味で機能するのは、今の詰め込み教育を前提として(つまり知識の習得があって)初めて成り立つものなのだから、今の詰め込み教育で結果を出せていない子にはアクティブ・ラーニングは厳しいものとなる、ということです。
ここまでは藤原さん自身はおっしゃっていません。
ただ論理的に考えればこういうことになります。

藤原さんのどこに共感を抱いたかというと、そのバランス感覚です。

アクティブ・ラーニングを推奨する教育者の方は大抵、教育観に偏り過ぎていてバランスの悪い発想しかできていない場合が多いんです。
事実、政府主導で進められる教育改革の軸にあるのだから間違いないとか、文部科学省が推奨しているから間違いないといった、「権威ある人のお墨付きがある」ことを理由にアクティブ・ラーニングを盲信している方もいるくらいです。
いや、盲信するしかない立場だから、かも知れません。
つまり、「この発想が素晴らしく感じるから進めよう!」という感覚論でしか話せない方が多いんですね。

その理由は教育学部を受験して大学に入っているからだと思います。

語弊を恐れず言わせてもらうと、教育者はほぼほぼ勉強のことをあまり理解しないまま教師になっています。
どうして「勉強を理解していない」と言えるかと言うと、教育学部自体がそんなに高い学力を必要としない学部である場合がほとんどだからです。
もちろん大学によりますし、東大京大になると70オーバーですが、ほとんどの大学の教育学部は偏差値60も要りません。

その点藤原さんは東京大学出身であり、教育学部でもなく、リクルートに入社し営業職でトップを取られたという経歴があります。
純粋な教育畑ではないから客観的に教育を考えることができるんですね。

学歴差別とかそういう話ではありませんが、誤解をされたくないので一つ付け加えて説明します。

詰め込み教育と言われている今の学校教育では、言わずもがな受験は「暗記大会」です。
しかし、大学ヒエラルキーの上位校や医歯薬、難関校と呼ばれるレベルになると、単なる暗記では対処できない入試問題を乗り越えねばなりません。
東京大学ももちろんその筆頭であり、単純暗記を超えて本質まで理解することが求められる数少ない大学でもあります。
そのため、全く違う視点を持って彼らは勉強を攻略することが求められるわけです。

その点教育学部はやはり頑張って暗記すれば合格してしまえるレベルです。
つまり「詰め込み」で合格できる範囲にある学部なんです。
失礼な言い方になっていたらすみません。
でも事実、勉強の本質を理解せねば合格できないようなレベルでは決してないわけです。

これは日本語によくある問題ですが、一度レッテルを貼ってしまうと、そういう見方しかできにくくなります。
今の学校教育もそうで、だれが言い出したか知りませんが、「詰め込み教育」と言われるとその言葉通りの認識をしてしまうものですし、実際そういう人というのは勉強の本質を理解できていないんですね。
今の教育制度にあっても、単なる詰め込みに終わらせない勉強ができている生徒が一定数存在していて、彼らは全く異なる感覚で受験に対応しています。
だから難関校、難関学部に合格していくとも言えます。
なので教育学部の人たちとは全く勉強に対する認識が異なるわけです。

文字通り詰め込む勉強のやり方(発想)しか知らない人は勉強の本質を理解していないから、教育観を軸に発想を回すしかない制約を受けています。
だから、教育改革の軸にあるはずの「勉強の取り組み方」については語れる素地がないと言わざるを得ません。
が、藤原先生は勉強のことを理解している(東京大学に合格している=受験制度を攻略できた)ことと、純粋な教育者ではないというアドバンテージで、教育を客観的に、かつバランスをもって観察することができるんです。

これまで出会った教育者の方にアクティブ・ラーニングについて伺っても、どうもしっくりこなかったのですが、藤原さんの話を聞いて初めてその趣旨が理解できました。
子供達の人生を担う教育という分野において、なんとなくで話を進めてしまうことほど無責任なことはありませんし、政府や文部科学省が教育改革に動き出したことを評価しすぎることもまた危険です。
その中にあって藤原さんが教育改革実践者として中枢におられるのなら、まだ希望があるかも知れません。

ただ残念ながら、まだ私の結論は変わりません。
アクティブ・ラーニングはきっと今のままでは十分に機能しないでしょう。
最初に言いました通り、グループワークや学び合いは「十分な習得が前提」だからです。

例えば、塾や独学ですでに答えが分かってしまっている生徒、家庭環境的に考える力がすでに身についている生徒にとっては、そうでない生徒と同じグループで学ばされることはかなり負担だと思います。
グループワークや学び合いが最も機能するのは、本来同レベルの知識量や問題意識がある場合だからです。
足並みを揃えないといけないと思うと待ちが多くなりますし、打っても響かない学び合いでは時間が無駄になっている感じもあるでしょう。
そうなると学校の授業時間が大きな足かせに感じ、学校に一線を引いて塾に意識集中したり、余計に勉強せねばと焦ってくると思われます。

また、反転学習を採用するにしても、家庭学習時間を有効活用できていた生徒にとっては良いでしょうが、現時点で宿題がままならない生徒が今以上に積極的に取り組んでくれるのかは疑問です。
結局は学校に来て学び合いの時点で「授業を観てこなかった」という状態では、他の生徒の足を引っ張ることになるわけです。

今までの個別の勉強スタイルであれば自分のペースで勉強できたのに、他の生徒とのグループ学習を採用したせいで優秀な生徒の足が引っ張れるという事態にもなり兼ねません。
そうなると全体学力が総じて低下傾向を見せることになります。
それが一番危険なことです。

となれば、今の学校教育の在り方をより有効に活かせるように促し教育して、アクティブ・ラーニングが大学に入ってから活きるようにしていった方がはるかに現実的です。
高校3年生までは知識の習得に集中させるのです。

おそらく私の知らないところで、たくさんの先生たちが真剣に議論を重ね、アクティブ・ラーニング導入に向けてご尽力されていると思うのですが、教育観に偏った感覚的発想しかできない方ばかりが3人集まっても、決して文殊の知恵にはなりません。
教育を客観的に眺めて、むしろある意味で批判的な考え方を持つ方を議論の輪に入れないと、今以上の有効性は得られないと思います。
アンチテーゼがないとジンテーゼは生まれにくいでしょう。

と、ごちゃごちゃ言っても今のトレンドは変わらないことも承知しています。
ですが誰かが言い続けないと、このまま進んでしまいますし、今のまま進んでも絶対ゆとり教育を超える混乱しか望めません。
想像できる結末は圧倒的な学力格差です。

そこに対して私は独自の対抗策を今後打ち始めるつもりです。
それは”自勉”です。
「自分で勉強できること」を全力で推し進めていかねばと思っています。
その理由についてはまた改めて訴えていきますので、是非ご覧ください。

今日はここまでにします。
ありがとうございました。